最近の葬儀に対する見方


時代と共に、人の終焉も変わってきました。

昔は
今のようにものに豊かな時代ではありませんでしたから、隣近所の人達は限られた農作物を持ち寄って、亡くなった人への供養の品々を捧げました。それは当時の人々にとっては普段にはないごちそうでもありました。食べたことにないごちそうを捧げることは、亡くなった人へのせめてもの、残った者遺族達ができる最大のことだったのです。

それからもうひとつできることがありました。それはできるだけ人々に声をかけて、お葬式をにぎやかにすることです。生きている時は何一つ楽しいことがなかったから、せめて亡くなった時くらいにぎやかでありたいという願いから、全く知らない人まで呼んだこともありました。

こうしてお葬式は、できるだけにぎやかになりました。それは貧困がそうしたのでした。

そのうち、せめて亡くなるときだけでも、と亡き人を送る遺族・人々はできるだけの資財をかけて努力するようになりました。生きている時があまりにも貧しかったことからせめて亡くなったお葬式だけでも……、という願いは受け継がれていきました。
昔から「親孝行、したい時には親は亡し……」といわれた心情は、親不孝の息子娘を表したばかりでなく、親孝行ができなかった貧しさも秘められていました。
時代は変わり、高度成長と共に、「お葬式はできるだけの資財をかけて……」が、義理・世間体だけの会葬者を集めるようになりました。親のお葬式をしてみたら、長男の仕事関係の人ばかりで、故人を偲ぶどころか、お通夜は宴会になったという話は、通常のことになりました。

故人を知らない人達のお葬式、故人を知らないお寺の住職のお経……、考えてみると、すべて故人とは何の関わりもない人々によって、故人が送られる、という何とも不思議なものに、お葬式は変わってしまいました。ことに、会社の社葬となると、亡き先代社長をまったく知らない役員が葬儀委員長を勤めることはよくありました。
おかしなお葬式がどれだけ続いたのでしょう。「お葬式は、故人と深い関係のある人で行わなければおかしいよ」という本来の意味に立ち戻って、お葬式が見られるようになりました。

生きている時の豊かさにより、にぎやかなお葬式は終わりました。質素なお葬式・家族だけのお葬式・故人と深い関係の人々だけのお葬式に変わりました。

しかし、最近困ったことが出てきました。亡き親のお葬式も面倒になったことです。家族だけなら、他人が見ていないなら、すべて省略になったのです。これにより、息子や孫は、「死んだら物と同じ」と思うようになりました。これからはお葬式はどうなるのでしょう。

時代はものの豊かさの時代へと変わり、亡き人への思いの表し方も変わりました。
これから忘れてはいけない大事な基準は、どういう事情であっても、親のお葬式は必ず行うということです。これに対し、お寺も人々も努力しなければいけません。もしこれがなくなったら、故人は物と同じになるでしょう。親から学ぶ・故人から教わることを忘れた時、人間は人間でなくなるといっても過言ではないからです。

直葬などと言われている葬儀のような形式があるようです。大昔からこうした形式は確かにありました。しかしこうした形式が行われたのは、世間様に顔向けができない事情、特別な事情がある一部の人々しか、行われない例外的なものであったことは以外と伝えられていないことは残念です。

清徳寺ホール家族葬